テーマ展「水府美術譚」WEBよもやま話 その3

web よもやまばなし~水府美術譚より~ シーズン4
 

その3 萩谷遷喬と狩野派~時代が求めたものはなにか?

みなさんこんにちは!フーテンの風狂野郎です。
さて、今回からが本編、展示の様子や展示作品の話もしかしたら難しいな・・・・ってみなさん思っている絵画や美術の話、気まぐれなフーテン風ちゃん風に?? つれづれなるままの話といきましょう。

第3展示室の入口、皆様をお迎えするところ
今回は展示を紹介するパネルのほかに「水府美術譚 序」として江戸時代すなわち水戸藩が置かれていた時代にどのような絵師や画人(画家)がいて、どんな人なのかを「簡単」に紹介させていただいています。

また、その人達が過ごした江戸時代の水戸は今とどのように違っているのかがわかる参考資料として茨城大学図書館が制作した「古地図と歩こう!水戸の城下町マップ 幕末版」を掲出させていただいています。
例えば林十江は本七町目(今の本町3丁目)に生まれ、立原杏所は横竹隈(今の柳町2丁目)に28歳まで住んでいて、萩谷遷喬は下梅香(今の梅香1丁目)に屋敷があったとされています。

最初に皆さんにご覧いただくのは、額に入った絵を2点。萩谷遷喬の筆になる「孔雀図」「鯉図」です。
もとは衝立の両面であったというこの作品。まるで生きてるかのようなリアル感は四条円山派的な絵が多い遷喬の一つの到達点ともいえる作品です。

会場入口の様子です

会場入口の様子です

「孔雀図」は金箔を散らした紙に尾羽をたたんで振り上げるかのような鳥のすがた。孔雀の目は地上の餌食をさがしているのでしょうか?孔雀は益鳥で、災難をはらう功徳があるとされています。仏教の世界では孔雀明王としてその名が知られていました。想像上の鳥、鳳凰と組み合わせることもあるそうです。

「鯉図」も、金箔を散らした紙に腹合わせの体勢の鯉。
鯉は滝や急流をのぼると龍になるといわれる「登龍門」の画題にも登場し、出世魚でもあります。江戸時代も半ばを過ぎ、泰平の世になると武芸鍛錬よりも、藩役人としての出世ということになるのでしょうか?ちなみに鯉のぼりは町人達が端午の節句の時にはじめたもののようです。鱗やひれにも金泥を入れ「金鱗溌剌図(きんりんはつらつず)」と書かれています。

ちょっと明かりが暗めですが、江戸時代の日本家屋は電気がありませんので、家の中は外に近いところ以外は薄暗かったようです。もちろん博物館での展示では資料保護のこともありますが、描かれた当時の「常識」を知るというのも大切なことです。たとえば今は簡単に手に入る紙も、昔は人の手で漉(す)いていたので大量生産ができずに貴重品だったこと・・・なんていうのもその一つです。

さて、萩谷遷喬は若い頃狩野派に学んだとも言われています。今回は萩谷遷喬は鳥の絵と鹿の絵を展示していますが、狩野派の瀟洒(しょうしゃ)な花鳥画の趣きは遷喬の画にはあまり感じられません。

江戸時代後半の絵の受容者たちが絵に求めたのは、見たままの姿を絵に写すことであったと考えられています。写実性に美を求めたこと、それは精神性よりも、ありのままを見たいという事・・・・遷喬は命じられて9代水戸藩主の徳川斉昭の肖像画を何幅か描きました。ここには斉昭自身の修正の指示があったりして、そのうっぷん? を写実的な花鳥画で晴らしていたのかなと、ちょっと考えてしまいます。

水戸の狩野派については次回、お話しします。

ぜひ動きそうで動かない孔雀や鯉を見に来て下さい。
フーテンの風狂野郎でした。

萩谷遷喬「鯉図」額一枚 水戸市立博物館蔵

萩谷遷喬「鯉図」額一枚 水戸市立博物館蔵