テーマ展「水府美術譚」WEBよもやま話 その4

web よもやまばなし~水府美術譚より~ シーズン4
 

その4 狩野派の功罪~人を育てることと記憶に残る作品をつくること

みなさんこんにちは!フーテンの風狂野郎です。
月は、文月(ふづき、ふみづき)、そういえば、昨日は七夕でしたね。みなさんは星に何の願いをしたためたのでしょうか。七月七日 一、三、五、七、九 これは中国では奇数が吉数とされていて、これが重なる一月一日、三月三日、・・・・などを節句として祝いました。桜井雪館の「九老図」は、吉数の最大数(一ケタでみます)の九人の老人が描かれています。九は久と音が同じで、永久や永遠をあらわすものとされているので長寿をことほぐにも適していたと考えられます。「九老図」は7月10日(日)までの展示です。

狩野派は江戸時代の絵画を語るとき避けては通れないものです。ただ、江戸や京での狩野派の動向は様々な研究や展覧会の開催もあり、解明が進んでいるところですが、地方のものとなると、地域によりけりです。

狩野派は英語では Kano school つまり「学派」というニュアンスで使われています。権力者のバックボーンがあって成立する「官学派」とでもいいましょうか。

狩野家は室町幕府の絵師となり、二代目の元信の時に水墨画の漢画様式を整理統合し、狩野派としての表現形式を確立しました。
様式を手本によりコントロールし、同様の技量を持つ門人たちを多数動員し、膨大な注文を処理する工房制作をスムーズにおこなったのです。

狩野永徳や狩野探幽は時々の権力者のもとで、それぞれ個性的な様式をつくり、統制のとれた絵師集団をひきいて注文をこなしていきます。

師匠から弟子へ、粉本と呼ばれる手本の筆写をその技量に応じて行い、技術を受け継いでいったのです。
プロの絵師集団であるがゆえに職人として淡々と仕事をこなしていったのでしょう。
地方の諸藩でも、時代の志向に合わせつつも、創造性の翼をあまり広げることができず260余年の時が過ぎていったのかもしれません。

狩野派の流れをくむ御用絵師の系譜は3つあります。
①狩野永徳の長男、狩野光信の弟子だった狩野興以の次男狩野興也とその子孫。17世紀後半(寛文から元禄期が中心)
②江戸で鍛冶橋並びに中橋狩野家に弟子入りしその後水戸藩の絵師となった池田家。最初の二代、貴信と跡信は「狩野姓」を許された。18世紀(享保から寛政期が中心)
③水戸藩士として寓された山内家は絵師として仕えた初代の栄春から養春、伊村、勝春と4代にわたって養子で家をつないできました。茶道頭も兼ね、風流事をつかさどる数寄者(すきしゃ)でもあったのです。18世紀後半から幕末まで(明和から文久年間)

この3つの流れの絵師たちの作品は現存する例が少なく、
今回前後期も合わせて展示させていただく10点という数字は多い方になります。
この中で狩野興也の正統的な山水画2点を紹介します。

A 狩野興也筆 山水図

A 狩野興也筆 山水図

B 狩野興也筆 楼閣瀧山水図

B 狩野興也筆 楼閣瀧山水図

 

Aは現在展示中の「山水図」です。地隈をひき、塗り残しで丸い月を表現し、その下に広がる建物と湖、まるで月夜に浮かぶかのような山水図表現です。7月10日(日)まで展示しています。

Bは7月12日(火)より展示の狩野興也筆「楼閣瀧山水図」です。巨大な滝の滝壺の手前にある立派な楼閣、マイナスイオンを浴び放題の涼しげな山水図です。

どちらも細筆で人が描かれており、画の中に入りこんでその人になった気分で「臥遊(がゆう)」するのもまた一興です。水(湖や滝)、山や崖、舟や牛馬、大きな樹など全ての要素を盛り込んだ上での構成力と、さもありそうな風景の現実感が出せるかということが絵師の腕にかかっています。平和な時代になってこそ求めたかった絵なのかもしれませんね。

さて、次の日曜日、7月10日(日)前期最後の展示解説を行います。そういえばこの日は参議院議員選挙の投票日。私はこの日に備えて昨日期日前投票をしてきました。時間がありましたら、投票の帰り道、歴史館で江戸絵画をご鑑賞下さい。